本のこと、はしること、山形県のこと。

本と本屋さんのことを中心に書こうと思ってます。走るのが好きです。山形県出身です。内容をちょっとづつ調整していってます。

『泳ぐのに安全でも適切でもありません』とMARUZEN&ジュンク堂梅田店

形容詞なんてなくていい、とある人は言った。レトリックは世界を真実から隠している、とその人は考えているのだろうか。形容することを嫌っていた。

目の前には揚げた魚がいる。三切れ。白い衣を薄くつけている。今にも崩れてしまいそうなほど繊細な輪郭は、衣によって保持されている。
箸でつまむ。口へ運ぶ。噛んだと同じく、魚の輪郭は砕け散る。口のなかから喉を通り、胃にたどり着く。
その過程を誰も観察しない。

口には魚の香りが残っている。
目の前には女性が座っている。柔らかく微笑む。日本酒を口に運ぶ。
彼女は仕事の話をする。彼女からはお香の香りがする。
お葬式の時に嗅ぐあの匂いではない。

そのお店のお酒は酒蔵から直送されており、とても安い。料理のお値段もさほど高くない。大衆居酒屋らしい。お客さんの多くはスーツを着ており、仕事場の会話をしている。

京都はちょうど紅葉の時期だった。祇園四条から少し歩いたその場所は、京都らしい古民家の並ぶ区画から少し外れている。昔からの歓楽街らしく、街角には肌をあらわにした女性が立っていたり、黒いスーツを着た男性が立っていたりした。

やんわりとした口調で、目の前にいる女性は話した。彼女の目は緩やかな曲線を描いている。彼女自身の器の大きさを表したような、優しい瞳の輪郭は、瞳とまぶたの境目さえもおぼろげにしているようだった。

これは、瞳でもあって、瞼でもあるの。

そんな風に語り出し、彼女はすでに生まれた意味をやんわりと拡張していく。

つまりは、と対峙した男の子たちは答えを求める。つまりは、瞳ってこと?瞼ってこと?と。
けれど、彼女はその問いに少し悩んでから微笑む。微笑むことで全てを許容できると信じているかのように。

つまりは、って言われると困ってしまうけど、瞳から始まった瞳は瞼から肌そのもの、血管、細胞とつながっていて、というよりもそれらも同時に瞳。
でも、私の知る瞳は本当の瞳じゃないの。
つまりは、私、瞳のこと見ながら、瞳のこと何も知らないなって思う。

首をかしげるのか、彼女に同調すべきか迷う男の子は、安い日本酒を口に運ぶ。とても良いお酒だ、と思う。

人は口から肛門にかけ、管で結ばれている。それは空洞である長い管。人は空洞だ。
吸い込む空気は肺から血管に運ばれ、再び肺に戻り、吐き出される。内側だと信じている人の体は外側で、私は空洞で、空気みたいなもの、他人みたいなものだ。
飲み込んだお酒は、いずれ排出されるが、排出されたものが、私自身なのか、それともお酒自身なのか、分からない。同時に、お酒であり私である。お米、水、幾億個という細菌類、ヘモグロビン、血管に染み出した知識、糖分、思い出。

お酒を再び、口に運ぶ。彼女も同じように口にする。私は世界。世界は私。そうしたら、なんて言って私はあなたと待ち合わせすればいい?
私は私の一部のあなたなのか、あなたの一部の私なのか。
世界が形容する私とあなたは、それぞれ、何かしらの私とあなた。美しい私、優しい私、器の大きな私。私は漢字じゃ描けない。世界に滲み出る私が必要だから。漢字は意味に閉じ込められてしまう。少しだけで良いから、言葉から滲む騒音を聞かせて。

ひらがなで書かれた曲線の名前を、鉛筆や習字の筆でなぞる。
墨が半紙に滲み出て広がる。まるで香りみたい。輪郭を持たない、境界の見えないものを感受する嗅覚のようなセンサー。

彼女は蛸を摘む。
同じように、彼はお新香を摘む。
彼女はお酒を飲む。
彼もお酒を飲む。
口元に広がるお酒の匂い。口元から香りが漂う。

翌日、京都から大阪へ移動する。
夜に、『泳ぐのに安全でも適切でもありません』をくれた女性と飲んだ。2人ではなく、4人で。

彼女は形容詞の波の中で、名詞を捕らえようとする漁師のように、目を大きく見開いて話す。
もしも、男たちが名詞に縛られなかったら、彼女たちはもっと美しくいられるのかもしれない。彼女たちは世界。けれど男たちは、彼女たちと世界を隔てたがる。
あなたはあなた。世界は世界。私は私。

MARUZEN &ジュンク堂書店梅田店のブックカバーをつけた、『泳ぐのに安全でも適切でもありません』を本棚へとしまう。読み終えたのに読み終わらない感覚が、伝えたいことも書きたいこともなかったかのように思わせる。読後感はほとんどない。滲み出てどこかへ行ってしまった。

私、私じゃない、とも言い切れない。

否定形に否定形を重ねて彼女たちは自分を拡張させようとする。
安全でもない、適切でもない。オススメもしない。呼び止めもしない。好きでもない、嫌いでもない。あなたじゃない。愛してる、とは口にするけど、愛してるなんて知らない。愛してるなんて口にしないけど、愛してるくらいわかる。

彼女たちは否定形を重ね合わせる。
唯一の存在を否定し、私を否定し、あなたを否定する。
それは、言葉にしなくてもいいもの。

全てを私と思って。

中学時代に好きだった子がそんなことを言っていた。

泳ぐのに、安全でも適切でもありません (集英社文庫)

泳ぐのに、安全でも適切でもありません (集英社文庫)