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本のこと、はしること、山形県のこと。

本と本屋さんのことを中心に書こうと思ってます。走るのが好きです。山形県出身です。内容をちょっとづつ調整していってます。

父親の記憶と『明るい部屋』

父親は、土建の仕事をしていた。
毎日夜遅かった。だいたいお酒を飲んで帰ってきた。今では考えられないが、みんな飲酒運転をしていた。

父親は、泥臭くて、セメントくさくて、加齢臭で、タバコ臭くて、酒臭かった。臭いのない父親のことは知らない。

今日、恵比寿の駅前を通ると、ビルの建設工事をしていた。夜しかできないことなのだろう。道幅いっぱい使っていた。
工事中の場所を通り過ぎようとしたら懐かしさを感じた。

タイトなスカートを履いた女性が2人、前を歩いている。彼女たちは、ヒールの高い靴でよろよらと歩いていた。酔っ払っていたのかもしれない。後ろから聞こえる声は、男女の会話する声だった。

工事現場の横で、ご注意ください、と優しく囁く警備員。彼の声は、工事の音で途切れ途切れに聞こえた。

父親の臭いがする、と思ったのは、工事現場を照らす蛍光灯の眩い光を見たときだった。光に照らされた工事中の人の影が際立って見える。セメントの臭いがした。土の湿った泥臭い臭いがした。

カールラガーフェルドは、最近本の香りがする香水を出した。彼自身が楽しむためだけの香水なのかもしれない。
それは、彼の私的な喜びだったのだと思うのだ。

ロラン・バルドの『明るい部屋』は、最愛の母親の写真について書かれている。僕が何かを言えるとしたら、それだけ。写真の良し悪しも、視覚的な文化も、それらの芸術もよく分からない。ただ、彼が彼自身の母親の写真を見たときに感じる、愛情なら知っていると思う。

有隣堂アトレ恵比寿店はもう閉まっていて、これから本屋へ駆け込むことはできない。
光が照らしている男は、僕よりも若く、僕の父親だった。工事現場の音が耳もとで響く。臭いが遠のくと、父親の幻影も消えた。僕は『明るい部屋』をすぐに読みたかった。

そして、カールラガーフェルドがへんてこりんな香水を作ったのも分かる気がした。いつか僕らは、煙草と加齢臭とアルコールの混ざった香水を作るのだろう。
セメントと泥を調合した香水を百貨店で得るだろう。

それらは、遠い記憶の中でくすぶっている毎日の、美しい記憶を調合して作ることができる。

明るい部屋―写真についての覚書

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