『ノルウェイの森』と『ノルウェーの森』
村上春樹は、僕、と言う。その主語を見つけた上野千鶴子は、男性の悪びれない二面性に嫌悪を示した。
なんの本で読んだのか、もう忘れてしまった。ハルキストへ向かう途中、僕は彼女の言葉にハッとした。
僕は、文字にするとき、僕、という言葉を選ぶ。そして、もう一つの人格を作り出し、現実と架空の世界を分け隔てる。上野千鶴子が言う通り、悪びれることなく、もう一つの自分を作り出し、現実から逃亡する。
ノルウェイの森は、ビートルズの曲からタイトルをつけている。
作詞は、レノン=マッカートニー。ポールとジョンの共作になる。
ノルウェイの森は、誤訳と言われる。一般的には、ノルウェイ産の木材、という意味らしい。
レノンは、浮気した時の歌、と語った。ポールは、恋人の家が安い松材で作られていたことから、タイトルをつけた、と言った。
当時、ノルウェイ産の木材は安く、労働者階級の人が住む家によく使われていたらしい。
二人は女の子の家にいた。
女の子は、いつでも私、という。私は私から逃れられないのだ、と忘れてしまった本の中で、上野千鶴子は言った。
私の家はノルウェイ産の木材で作られた安い家だ。私は仕事へ行き、働き、家に帰る。ノルウェイ産の木材で作られた、安い家へ帰る。
私はそこで寝る。ときどきレノンがやってくる。彼は座るところを探し、床に座る。ワインを飲んで話をする。
私は、明日仕事があるの、と彼に伝える。彼は、僕には仕事がない、というけど、結局は話し相手がいないから眠る。一緒のベッドで寝ればいいのに、彼はいつも風呂場へ行く。ここがいい、ここが落ち着くんだ、と言って。
朝になって、私は仕事へ行く。
彼はまだ風呂場で寝ている。いや、寝たふりをしているはず。だって風呂場でなんて熟睡はできるわけないじゃない。
私は半裸で部屋を走り回り、洋服を着て、カバンを持つ。シャワーを浴びたいけど、彼が寝てるから浴びれない。私は、部屋の鍵を開けたまま、仕事へ行く。書き置きや朝ごはんなんか残していかない。残してきたものは、脱ぎっぱなしになった下着だけ。たぶん、彼はそれを指でつまんで匂いを嗅ぐ。顔をしかめて、風呂場へ放りなげるの。それから、タバコに火をつけて、私の家の壁に焦げ跡を残す。
もしくは、ポールがやってくる。ポールはレノンと違って紳士なの。彼は私をお姫様のように扱う。だから私も彼を王子さまのように扱う。彼は私の家を安い材木の家、だなんて言わない。彼は私の家をノルウェイの森って名付ける。だから私はノルウェイの森のお姫様で、彼は王子さま。私たちは、広大な森の中で横になってワインを飲む。私は、彼といつまでも話してたいと思う。でも、彼は腕時計を見て、私に言うの。さあ、もう寝る時間だよ、君は明日仕事があるんだから、と。
彼には仕事がないのに。
ポールは私と一緒のベッドで眠る。狭いベッドだから、私はうまく眠りにつけない。横を見ると彼はぐっすり寝ていて寝息を立てている。私は、ベッドから立ち上がり、床の上に座る。飲み残したワインをグラスに注ぐ。真っ暗な夜。私は何も言わず、何も聞かず、何も言わなかった。私は、ワインを飲む。初めてお酒を飲んだみたいに、苦々しい顔をしてると思うの。でも、その顔を見てくれる人はいない。
朝になる頃、私はベッドに入る。彼は寝返りをうって、私にぶつかると、目覚める。もう起きたのかい、だって。だけど私は、そう、もうそろそろ準備しないと、って言ってまたベッドから出る。馬鹿みたい。
私はイライラして、仕事へ行く準備を完璧に整える。シャワーを浴び、朝ごはんを作り、朝ごはんを食べ、彼を追い出す。
彼は、またね、と言って手を振る。
私は、じゃあね、と言って仕事へ行く。
夕方、私は本屋へ行く。駅から家へ向かう途中にある小さな本屋へ。まっすぐに帰りたくない。本屋に入りとすぐにトイレへ行きたくなり、落ち着かない。料理のレシピ本を選び、レジ横に並んだ売り出し中の本を手に取る。
急いで本屋を出ると、尿意はなくなる。
私は家へ帰る。部屋は真っ暗だったので、私は灯をつける。テーブルの上に買ってきた本を置き、夕ご飯をつくる。
いつもと同じ、パンにサラダ。このままじゃガリガリになって、消えて無くなっちゃうよ、と女友達は言う。そうだ、健康に良くない、と思っても、レシピ本を買うので精一杯。買って満足して終わる。もうすぐ、消えてなくなってしまうかもしれない。
私は、私から逃げれない。私は私だ。消えてなくなってしまうまで、私は私だ。
ノルウェイ産の壁にタバコの焦げ跡が残っている。まるで田舎町の駅のトイレの壁みたいだ。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 講談社
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